船内について

町内に残る史跡

古文書

古文書

戎講帳箱、組合印えびすこうちょうばこ、くみあいいん

戎講帳箱1
戎講帳箱2
戎講帳箱1 裏面墨書
戎講印1(日本福祉大学知多半島総合研究所蔵)
戎講印2(日本福祉大学知多半島総合研究所蔵)

帳箱は、戎講組合の引継文書や組合印を入れた箱。複数の帳箱があったことが確認されていますが、その中の一つには、箱の裏底に文化8年(1811年)に帳箱と組合印を初めて作ったことが記されています。
組合印は、大きさ約5㎝で「尾州内海戎講組合 年行事(ねんぎょうじ)」と彫られた印です。
「年行事」は戎講の仲間から選出された役員で、数名が選ばれ、戎講を運営しました。

戎講組合船数帳えびすこうくみあいふなかずちょう

船数帳(文化13年)
船数帳内容(文化13年)
戎講中石数控(天保元年)
戎講中石数控内容(天保元年)
五十石己上船税取立帳内容(明治6年)

戎講組合に加盟していた船名、船主名、船頭名等の掌握を目的に毎年作られたもの。毎年作られたのは、戎講仲間船の加盟・脱退や船主、船頭の移動変更が毎年発生していたことを意味すると考えられています。
加盟した船は文政10年(1827)の97艘を最高に、80艘から90艘の間で推移していました。
また、「船数帳」、及び天保元年(1830年)の「戎講中石数控」、明治6年(1873年)の「五十石己上船税取立帳」、文政・天保年間の川見分経費に係る文書などから、戎講に加盟していた船の大きさが推定されています。
これによると、文政年間には400石前後の船が多く、時代を経るにつれて大型化し、明治初期には600~800石程度の船が多くなり、中には1000石を超える船もあったと考えられています。

評議留ひょうぎどめ

年々記録留(文政4年~嘉永2年)
年々記録留(文政4年~嘉永2年)内容1
年々記録留(文政4年~嘉永2年)内容2
年々記録帳(嘉永三年~慶応元年))
年々記録帳内容(嘉永三年~7慶応元年)

主に戎講の「参会(総会)」で評議された議案と決議内容、各地との通信などが記された文書で、戎講文書の中には、文化6年(1809)単年の記録のほか、文化6年以降、慶応元年(1865)までの複数年をまとめた4種類の文書が残っています。
これらの記録によると、①戎講の運営方法や会計処理、加入船、船頭への対応など仲間内部に関する案件、②戎講と関係のある各地の湊、商人、寺社との関係構築、取引などに関する案件が主なものでありました。

水主かこの取り締まり

水主切手
水主切手2
船宿の張り紙
切手木版
切手木版(印刷したもの)

沖船頭(雇われ船頭)を始めとする乗組員たちの行いは、船主の利害に直結したため、船主たちは乗組員の取り締まりについてたびたび喚起を促しました。戎講では、船頭や水主の生活が派手になることを戒め、船中でのばくちを禁じたり、各湊で水主がむやみに陸へ上がらないよう規制したりしました。
そのほか、積み荷を抜き取ったり、不祥事を起こした水主への切手発行や切手不所持の水主の雇用を禁止しました。
そして、船宿にも水主の取り締まりを要請し、船宿や船主宅において戎講での決定事項を周知徹底させるための張り紙をさせました。

助力願じょりょくねがい

和田岬常夜灯建立助力嘆願書
和田岬常夜灯建立助力嘆願書2
預り手形一札□(金拾両、金比羅大権現様江御寄付石灯籠為御灯明料)(安政2年)
青峰山正福寺の寄進請取状(安政4年)

戎講にとって、航海先・取引先の湊や商人、寺社などとの関係構築は重要でありました。戎講には各地の商人から資金援助や寺社からの寄進の要請がありました。播州(現兵庫県)兵庫湊の問屋・車屋五兵衛から戎講に宛てられた依頼状では、兵庫津付近の航海目標であった和田岬に常夜燈を建立するので、助力を願いたい旨が述べられています。
車屋五兵衛は兵庫における内海船船主たちの主要な取引先で、建設費のみの援助を願い出た文書です。
多くの場合、戎講との関係の深さや必要性などを勘案して支援の可否、金額、出資者などをその都度決めました。

相場通知そうばつうち

相場通知
相場通知
相場通知

全国各地の問屋商人から寄せられた商品の相場情報です。
内海船は、主に積荷の商品を買い取り、需要のあるところに自由に輸送して売却する買積み方式をとっていました。
隔地市場間の商品価格差が利益の源泉となったため、このような相場情報は非常に重要なものでした。
戎講は、単独の廻船主では行い得ないような各地商人との親密なつながりを構築して、各地の情報をいち早く獲得し、取引の円滑化を実現しました。
そのため、内海船の信用を失墜させるような行為に対しては厳正に対処しました。

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