船内について

町内に残る史跡

古文書

内海船
内田佐七家

内海船うつみぶねとは

江戸時代後期から明治時代にかけて、南知多町内海を中心に、知多半島南部地域の廻船主で構成された「戎講組合(えびすこうくみあい)」に加入した廻船は、「内海船」と呼ばれました。戎講組合は、遅くとも天明4年(1784)には結成されていたことがわかっており、最盛期には約100艘の船が加入していました。内海船の活動範囲は、江戸から瀬戸内海東半分の間で、米を主な積荷とし、瀬戸内や上方は、塩、畳表など、江戸やその周辺では魚を原料とする肥料や大豆などを運びました。内海船は生産地で商品を買い取り、消費地でその商品を売って利益をあげる「買積(かいづみ)」という商いを得意としました。

船内について

船内について

船室は船の後部にあり、「屋倉(やぐら)」と言われました。ここには船頭の部屋のほか、神棚や仏壇などが設置された部分や、炊事場、居室などの部分に分かれていました。また、帆を吊るした「帆桁(ほげた)」と呼ばれる長大な部材や碇などの重量物を上げ下ろしするために使用した「轆轤(ろくろ)」と呼ばれる綱の巻き取り装置もこの部分に設置されました。

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町内に残る史跡

町内に残る史跡

町内には、内海を中心に内海船に関わる史跡がたくさん残されています。特に内海川河口の東端(ひがしばた)、西端(にしばた)地区には、船主や戎講組合と密接な関係にあった寺社が多くあります。

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船内について

古文書

内海船の活動は残された古文書から明らかにされました。日本福祉大学知多半島総合研究所は、これらの古文書をもとに長年にわたって研究しています。

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